2017年6月25日日曜日

応仁の乱とは何だったのか?

 応仁の乱。日本史でも習うし、京都の人に「先の大戦は?」と聞くと第二次世界大戦ではなく応仁の乱と答える、といったジョークなんかもある。でも結局どういうものなのかイマイチよく分からない。なので少し調べてまとめてみた。

■発端は何か?
 足利義政(銀閣寺を作った人)の為政者としての無能っぷりが発端。そもそも義政は政治なんかしたくなかった様子。政治から逃げるために(この時点で義政に子供がいなかったので、代わりに)実弟の足利義視を後継にすると約束した。タイミングが悪い事にこの3ヶ月後に義政の正室である日野富子に男の子(足利義尚)が生まれる。
 義視を次期将軍にしたい義政と、義尚を次期将軍にしたい日野富子の争いが発端。

■誰と誰が戦ったのか?
 実はこの基本的な事が簡単ではない。それこそが応仁の乱を分かりにくくしているのだと思う。先に書いた発端でこの戦が始まったので、最初は

  •  西軍:日野富子、足利義尚、山名宗全(義尚の後見人)、大内政弘
  •  東軍:足利義政、足利義視、細川勝元(義視の後見人)

のような構図で戦っていた。
 しかし西軍優勢の状況になると、東軍大将の任を受けていた足利義視が西軍に寝返る。それに怒った義政が義視の次期将軍の権利を剥奪して、西軍の義尚を次期将軍として指名する。これにより、敵味方がすっかり入れ替わり

  •  西軍:足利義視、山名宗全(義尚の後見人)、大内政弘
  •  東軍:足利義政、日野富子、足利義尚、細川勝元(義視の後見人)

の構図で戦いが進む。
 この時点で義政と日野富子の利害は一致して将軍後継者争い自体は終結し、しばらくして義尚が正式に9代将軍に任命される。

■それでも終わらない戦い
 発端の後継者争いが決着して義尚が正式に将軍に就任したものの戦いは終わらない。
 戦いを率いていた山名宗全も細川勝元もこの頃には既に亡くなって明確なリーダーもいない中、戦いが全国に広がり様々なしがらみが生まれて、東軍も西軍も戦を止めるに止められない状況になっていた。これが約12年の間、泥沼のように続く内乱になっていく。

■終結
 日野富子の政治手腕がこの内乱を収束させていく。
 長引く戦で京都の町も荒廃し、当事者たちもお金が底を尽き、誰もがこれ以上の戦いを望んでいない状態だった。
 それでも戦争が続いているのは、敵方西軍の有力者である大内政弘が敗戦濃厚となっているにも関わらず京都に居座って戦を続けていたから。大内義弘は敗戦して撤退すれば領土も失い官位も剥奪されるため退くに退けずいた。それを見抜いた日野富子は天皇に直訴して領土や官位をそのままにするよう計らう。それにより大内政弘が京都を離れ、事実上の終結を迎える。

■戦国時代へ
 この内乱は足利将軍家の時代の終わりのはじまりとなり、各大名の台頭とそれらの争いの時代、つまり戦国時代へと移り変わっていく。


 明確なリーダーがいない、退くに退けずに小競り合いが続いて泥沼化など、中東問題やパレスチナ問題やらに通じるものがあるなー、と思う。現代にも日野富子みたいなリーダーが出てくれればと願う。トランプさんはそんなこと全く興味はないだろうしそんな期待はできないな。トランプに敗れたヒラリーさんはこのような手腕を発揮してくれただろうか。応仁の乱を調べてみてそんなことを考えさせられた。

ドラッカーの「プロフェッショナルの条件」を読んで

京都に引っ越す際に荷物をまとめていたら、昔読んだドラッカーの「プロフェッショナルの条件」が出てきたので再読。

「成果をあげるには?」ということに焦点を当てたこの本。まだ前半だけしか読んでいないけど、やっぱりドラッカーはいろんな気づきを与えてくれると思った。

一番の気づきは、「成果をあげる能力は才能ではなく、習得できる技能であるということ。成果をあげるための習慣を身につけさえすればいい。そして習慣は反復して習得していくもので九九を暗唱するように条件反射でできるようになることが必要。決して卓越した能力が必要ではない、成果を上げるための並みの能力があればよい。」ということ。

そしてその習慣とは、「組織の目的を明確にすること。その目的を達成するために何に集中するべきかを明確にすること。」

後半も引き続き読んでいく。